坂道の下のあの街のなかで

人生は階段だと比喩されます。でも、私は人生は坂だと信じたいと思っています。口でさらりと語れる出来事によって評価されるような人生の価値基準よりも、何処とは言えないけれど、何となく良かったと感銘を受けるような生き方がしたいからです。

「以前は***があった、だから幸せだと思う」
「***で、辛かった」

三者による客観的かつ絶対的な基準が必要な幸せなんて要らない、評価がなければ信じられないような人生なんて嘘だ、と思うことがあります。形のある出来事によって人生が決まるなんていうのは味気ない。問題なのは其処から何を得たか、何を感じたかです。
世の中には真実は一つ、ではなくて、人の数と同じだけの真実があります。「真実はいつも一つ」なわけありません。なんだかんだいっても、多くの人々は日々を本気で生きています。その行動を裏付けるものは人それぞれ異なった信念によるものです。それが嘘だなんていうことはありません。結果的に事実は一つですが、それを取り巻く人々の思いは千差万別ですね。
緩やかな上り坂を登っていたとき、日が暮れてきたのに気づいて後ろを振り返ってみる。すると、夕日に染まった街の風景が一望できる高さまで登っていたことに気づき、しみじみ感動したりする。そういった瞬間に幸せを感じたりする。その感情を理で説明できるかというと、なかなか難しいのです。真実を決めるものは、”形の無い何か”だったりするからです。
幸せや苦しみといった、有象無形な概念を知りたくて知りたくてしょうがないから、それを客観的かつ絶対的な基準で計ろうと人は様々な努力をしてきました。心が覗きたいがために、怒鳴り、がなり立て、ヒステリックになります。私もそんな日々の葛藤を感じたりすることもあります。
そういった形のないものを獲得するには、なかなか難しいことですが、自分に勝てば良いのでしょう。人との競争は大変心が痛い。でも、自分と戦うというのはとても良い! なぜなら誰も破滅に追い込む必要もないし、誰も傷つかないから。有象無形の感情が自己獲得するものであるなら、きっとそれは自分に勝ったときにこそ手に入るはずです。
そう考えると、幸せはそう遠くない坂の上で獲得できると信じています。