言葉と抽象力

みなさんは頭で考えごとをするとき、あるいは何かを思い浮かべるとき、回想するとき、その光景そのものが鮮明なイメージとして直ぐに沸いてくるものでしょうか? 殆どの人はそれが出来ないと私は踏んでいます(それが出来る人は天才です:-P)。おそらく考え事をしているときというのは、必ず言語を介しているような気がするのです。すると疑問に思うのは、一体どうやって記憶をデータとして保持しているのかという所でしょうか。例えば『海』という言葉を見かけただけで、鮮烈なイメージが沸くと思います。それは非常にビジュアルに思えるけれども、よく自己観察すると、それが全て言葉に構成されているような、そんな曖昧なものになってしまいます。それをビジュアルでないと先に述べた理由は、その思い浮かべた海の光景を見ながら、次は直ぐ近くの海岸を思い浮かべてください。そのとき、砂浜の砂をきちんとイメージできますか?どこかアニメのようなベタな印象になっていませんか? 何故かイメージが鈍くなっていませんか?
つまり、人の視点はカメラのような捕らえ方をしているように思えて、実はそうではありません。それはスーパーリアリズムの話になってしまうので割愛してしまいますが、人は森羅万象を言葉の視点から見ているように思えるのです。言葉で表せないものは非常に見えづらい。蛇を見て気持ち悪いと思うのは、その蛇の体が特異なもので構成されているから。蛇を見て「ヌメヌメしてそうだなぁ」と思いがちですが、実は蛇って乾燥していてザラザラしているんですよね(私は触ったことありません:-P)。
物事の抽象性を理解する能力は、実は非常に言語的な面を持ちますが、そうでもない場合も芸術分野に関してはありそうなので、やはり一概には言えません。でも、人が言語的な視野感覚を持っているのは疑いようの無いところです。日本の良いところは、そういう視野の区別をはっきりとつけないところです。西洋では数学で言うゼロの発見が遅れていました。それは何故かと言うと、その昔ソフィストという詭弁家が居たのですが、彼らがこういう事を言ったからです。『無い物は存在しない。だから、真空は存在しない。零も存在しない。』。この言葉に対して反論できなかったため、"視野"がそこで固まってしまい、零の発見が遅れました。
このような言語的な視野を踏まえて考えると、様々な抽象思考が出来ます♪ 視覚、聴覚などから得られた情報を基に私たちは世界を構成するため、一つ一つの経験した言葉から自分の世界は成り立っています。似通った言語で構成された世界を持つ相手とは意思疎通が楽だけれど、その逆は難しい―
だから、『あなたは耳慣れない言葉に尻込みするほど器量が小さいのですか?』とソクラテスのように、私は虻となって皆に問うてみました。 (…いや、嘘です。私はそんな厳かな人じゃありません:-P ノリで言ってしまいましたw)