忘れないで

分かっているんですか。そいでいてのうのうと生きているんですか。見上げた図太さ、たいした精神力ですね。尊敬に値します。それともあなたは、自分の腹の内を全てさらけ出して、そいでいてあなたのことを好いてくれる存在があると思っているのですか? そいでいてあなたを選んでくれる存在を信仰しているのですか?
それこそ正に常軌を逸している。

みんなに選ばれたいために、如何にも卑屈に見せて同情を誘おうとするのは、仮令直接言葉を発して伝えていないとした処で、その行為は相手をざっくりと攻撃するノンバーバルなコミュニケーションです。そんなものでは人は人にはついていかないのです。
好かれることと選ばれることは混同され易いのですが、その実全く違うものです。好かれたいなら君自身のその突っ張ったプライドをへし折って、力を放棄すれば良い。選ばれたいのなら、卑屈になって自己韜晦するなんて愚の骨頂です。
好かれることは兎も角、選ばれるためにはそれを取り巻く機会と環境をねっとりと観察する必要があります。場面、場面において、自身が選ばれるようにするのは難しいことではありません。好かれるには魅力が必要ですが、選ばれるために必要なものは計算高い洞察力です。
「好かれたい、好かれたい」と良く口癖にする人の陥るスランプは、内心では自分が唯一人の存在として選ばれたいと思っているくせに、自分に魅力が無いから好かれない、と魅力のせいにして逃げてしまうものです。そこには”教科書のジレンマ”が存在しているわけですが、そういう人の気持ちも分からないではないので責めはしません。ただ、飛び方を知らない渡り鳥の雛のように、あまりにも幼く思えて女々しく写るのが鬱陶しい。本当は何処までも飛べるというのに・・・
醜いアヒルの子にしろ、シンデレラにしろ、最後はハッピーエンドな王道のストーリーです。その王道のストーリーにはある裏設定が恰も当たり前であるかのように前提条件となっています。それはね、醜いものから美しくなることです。古今東西の神話を検証してもこのタイプのものが非常に多いのです。それは現在の社会でも同様だと思います。だから人は分かりやすい外見から綺麗にしようと躍起になりますが、その努力は内面を汚く卑屈にしてしまいます。それが皆に見透かされてしまうから、人さえ人に残りません―