私の優しくない先輩

今日はNHKで小説家を目指す若者特集をしていました。以前に此処で言ったかもしれないけれど、どこかの評論家が若者の活字離れを嘆いていましたが、全然そんなことは無く、むしろ活字に近づいています。”役不足”などの誤用の指摘が多くなったこともそれを象徴する一つです。その原因は専門家が言うような的外れのものではなく、一番の理由はインターネットが個人間の価値観の配信を許していることですね。小説なんて自意識が強くないと書けないものですから。
さて、本屋で話題の天才高校生作家”日日日”の「私の優しくない先輩」を立ち読みしました。恋愛小説コンテスト受賞作品ですね。率直な感想を言ってしまうと、こういう即物的なものが今の若者に受けるのかなって感じです。うーん、やっぱり高校生は若い(^^; 若くないと、この小説を読んでも面白くないかも・・・ 私はもっと抽象的で、回りくどくて小難しいものが好きなもので(苦笑)。
おじさん達の一番の勘違いは、パラダイムの読み間違いです。昔よく言われた”テレビを見ているとバカになる”に似ています。漫画を読んでいようが、ゲームをしていようが、それでも若者はそれらの大量の情報を無意識に抽象レベルに落とし込んで、他所で再利用することが得意なんです。岡田斗司夫さんはこのことを洒落て”マルチメディア中世”と読んでいました。これから団塊の世代が次々と退職を迎えていきます。もっと自由な時間が増えていくわけですが、それに反比例するかのごとく、”モノ”の数は減少していくのです。するとね、必然的に人々の関心が精神的に内向していくしかありません。哲学に興味を持つ人、絵に関心を持つ人、小説を書き始める人・・・ほら、”今”は起こるべくして起こる必然に過ぎません。
小説(簡単な雑文)は元々暇な主婦の間から始まった言葉遊びです。インターネットのように、文学もそろそろ市民に還元しなければならないときだと感じます。このライトノベルのブームに乗って、ビックネームしか文庫本を出版できないとか、詰まらない柵をなくして欲しい…何のための”小さな巨人”なのか、本末転倒なのです。何処に行ってもローレライばかり並んでいるのを見ると、もううんざりです(笑)
映画でエイリアン vs プレデターが アリ ならば、ユヤタンの小説だってもちろんアリだ。それが十分に楽しめるほど、情報社会に成熟したというのだから、『今日着て行く服を選ぶように、様々な先人の作品からインスパイアされて出来た小説のセンスが認められても良い』と私は思います。