残酷な願い、幸せな夢のカタチ

ときどき憑かれたように何処か他所の日記サイトに行き、その人の日記を最初から見ることがあります。ざっと読み進めていくと 、だんだんと日付から内容が読めてくるようになります。それで、誰の日記を読んでいたとしても、最後に思うことはたった一つ、
『幸せそうで良かった』
って。これ以外の感想が浮かんできたことがありません。日記は自分のために書くものですが、(誰の日記にしろ)日記を読むっていう行為そのものも自己との対峙以外の何者でもありません。別に私が誰かの不幸を見て安堵しているわけではなく、むしろその逆で、もっと哲学的なものを考えてしまうのですよ。私はあんまり自分のことを具体的に言いたくは無いので抽象的に言いますが、
人が日々考えることと、その行動が"普通"であることが一致するためには複雑なプロセスを踏まなくてはいけない。だけど日本人が良く思いがちな、感情が自発してくる、なんていうことは本来絶無にありえないわけです。物思いにふけるとき、考え事をするときは、それが自発ではなく、何かあなたの不幸に繋がる出来事が起きそうだからなんです。その軌道修正を始める閾値が、個人の普通であるという考え方なのですが、そのバランスはもちろん人それぞれです。
私が他の方の日記を読んでいていつも感じるのは、"その"価値観が違うなぁ、と。つまりはそういうことなんです。私は何か深いハンディキャップを持っている方の日記が好きです。ハンディを持っている人は、この『次元』の差というものを本当に良く理解しています。それを全く考慮していない道義的な日記は3分で飽きてしまう・・・ 洒落じゃなくて、皮肉でもない日記の面白さは此処にあるでしょう。
みんな信じないかもしれないけれど、私は最大多数の最大幸福を願っています(苦笑)。そうじゃなければ、私はネットでこんなことを書いたりしませんよぉ〜(´ー`)
・・・きっと言いたい事は30%しか伝わらないだろうなぁ〜(苦笑) ちょっと話が端折り過ぎな感もあるので、一言だけ追記。

人は幸せであることは自覚できないけれど、不幸には意外と敏感だって思ったことはないかい?