ネコソギラジカル

ネコソギというネコソギネコソギしろ。
我々は美しい世界に誇れ。ここは死線の寝室だ、存分に暴れろ死線が許す―

ネコソギラジカルを読みました。ネタバレしようかどうか悩みます(笑)。過度のネタバレはしないように感想を書きます。
そしてアマゾンで一位ですか・・・まぁ、そうだろうねぇw アマゾンの利用層にどストライクだもん

凡ての傷口を癒合するのは時日だけである
始まりはヒトクイマジカルから続いて病院のベッドから。物語に入る前に主人公の回想シーンあり。この回想シーンは三途の川、あるいは忘却の川レイテをメタファーしたものでしょう。忘却可能性という奴ですね。ゲーテファウストの第二部のスタートと一緒です。主人公のいーちゃんは事あるごとに物事を忘れてスタートする。これは、忘れないままなのだとしたら、いーちゃんの”君と僕の世界”は、悲劇の袋小路に入ってしまうしかないから。相思相愛というのは刹那的な悲観意識と共に死に向かって落ちていくしかありません。始まりの忘却というのは、新しい躍動感を得るために古くから使い古された正統な文学のメタファーですから(笑)。だから、"いーちゃん"は忘れっぽい。戯言だけどね┐(´〜`)┌
中盤〜後半
西尾維新戯言シリーズの売りは、タダのミステリに終わらずに、いーちゃん(主人公)の抽象的な哲学めいたセリフ(戯言だけどね)の数々と、そのキャラクターが織り成す物語でしょう。以前までは一応ミステリしていたのですが、本作はミステリとはいえません。ネコソギラジカル(上)は、広げすぎた物語を一気にたたむ準備の巻にあたります。最後はちょうどネコソギラジカル(中)に続く形で終結します。というわけで謎解きは一切無く、やけにジョジョネタばかりだったので、以前の作品の方が好きかな。

ヒトクイマジカルから気づいたことだけど、作者の西尾維新は、ソフィーの世界を読んだことがありますね。木賀峰助教授が15分遅れてくる場面があるのですが、それはいわゆる”アカデミックの15分”と呼ばれる直喩であること。そして、ストーリの背景としてのストーリが見え隠れしているからです。ソフィーの世界では、主人公のソフィーは結局物語の外側に脱却してしまいます。そして、新たに物語のヒロインとなったヒルデを、世界の外から見下ろすのです。それは、全部”ハイデガーの哲学のメタファー”なんですけれどねぇ(笑)。ソフィーの世界は哲学の歴史を順に説明していくファンタジーですが、作中にはハイデガーが一切出てきません。それはナチスの問題が絡むからか、他の理由があったのかは分かりませんが、少なくとも、ソフィーの世界内のファンタジーのストーリの”外側の世界”というのは、”ハイデガー的哲学”です。そういえば西尾氏は、作中で『全てが正解であるという不確定性原理・・・』とか書いていませんでした?
というわけで詰まらない講釈をたれてしまいました(汗)。あ〜あ、おぼろげながらも、終焉の形が見えてきたような・・・・・・確かに、ネコソギラジカルは一ヶ月に一巻ずつリリースしないとダメですね(苦笑)。上巻を読んで納得。