愛すべき哲人

私は哲学は好きだけれど、閉鎖的な社会にありがちな精神論は大嫌いです。街で哲学を謳っている人ほど、哲学からは程遠い。精神論を唱えているストイックな人ほど哲学からは程遠い。本当は普段私達が触れている科学ほど哲学に近いのに、多くの人はそれが通じない場面で哲学を使おうとするから、そもそも可笑しいのです。
以前、街を歩いていたら、某国立大学生に「あなたの夢は何ですか?教えてください」とか言い寄ってくる人がいたけれど、そんなキモイ人に答える夢なんて持ち合わせていないので、当然スルーしました。なぜって、大概そのような人は、”相手が答えられないことに愉悦する”ような陰険な感情でもって話しかけているからで、「忙しいので・・・」とスルーすることが彼にとっての期待された解答だからです。きっと本気で夢について語られたら、彼は何も言うことが出来ないでしょう。夢とか自分探しとかしてるより、学校行って勉強して寝ろ!と言いたい所ですヨ(笑)。
いずれは今の科学でさえ、神話みたいなトンデモ話になるのかもしれないわけで、もし今後もっと真理に迫れるとしたら、今の常識は全部御伽噺や神話に昇華してしまいます。そんなおとぎ話の言い伝えを受けて、その時代の科学で矛盾が起きないように整合性をあわせることが以前の哲学の使命でした。例えばキリスト教圏内だと、人はアダムとイブから生まれたとか、イエス様の存在、天使、・・・ほら、どこか存在意義に矛盾が起きそうでしょ? それを一生懸命埋め合わせてきた叡智の結晶が哲学であったりするわけです。当時の人はそんなことを意識しないで、パラダイムに流れるままにやっていたのですヨ。
これはまさにアキレスと亀で、アキレス(哲学者)は一生懸命、亀(真理)に追いつこう(科学の整合性をあわせよう)と走っているのです。真理の追究の果てに生まれた教訓のことを所謂”哲学”と読んでいるだけのことー それは、実はともすると哲学と反対の意味と思いがちな現代の科学のことを指すのです。
だから街で哲学を謳おう。夜空の星から神話を思い浮かべるように、街のネオンサインから社会を憂えうべきです。無意識に受け入れている現実に疑問を持ち、その謎を埋め合わせる行為が哲学ですよヽ(´ー`)ノ
自分探しなんて哲学じゃなくて、甘えんぼさんの言い訳ですヨ。それをカッコイイと感じる今のパラダイムに疑問を感じなければいけないのは当然です(笑)。