運命

ちょっと更新が空いてしまったので、携帯から投稿します。私は運命論者ではないけれど、結局運命というか人生が堂々巡りであることは信じています。つまり私の考えでは、刹那を生きているからこそ運命は決まっていてたまるものか、と絶望の中で一縷の期待に甘んじて受け入れてしまうように、科学者が希望的観測を行ってしまうように思うわけです。だって、もし私が10年前に戻れるとしたって、同じ脳で同じシチュエーションなら、同じ決断をしてしまうと思うからです。「だったら運命論者じゃないの?」と突っ込まれそうですが、刹那の中ではその判断を越えられると私は信じているのです。それはファンタスティックな願望ですけれど、例えば日常の中でなんとなく結果が予想出来そうなことってあるじゃないですか。無意識にも私たちはその考えうる手段の中で自分の考えでもっとも最適だと思える道を歩んでいるはずなのです。だったら運命なんて初めから決まっているようなものだけれど、だったらどうして私たちはその結論ひとつひとつに一喜一憂しているの?それこそが刹那の中で運命を打破できるんじゃないかって思う理由なわけです。
そういうわけで私は微分が大好きです。微小近似増分は人の目に追えない。線分はいくら足し合わせたって面積ゼロです。だけど、理路整然とした数学の極限の世界では、その越えられない事象の水平をいとも簡単に突破できるのです。
私は以前から声高に主張していたのですが、人間がコンピューターに近づくのではなく、コンピューターが人間に近づくべきなんです。プログラミングが天才的に出来ることが偉いわけじゃないよ。プログラミングが自然言語に近づくことが目的なんだよ。だから、だからこそ、私たちは計算の届かない事象の水平を越えるベくコンピューターには出来ないクリエイティビティなイマジネーションをしなくてはならないのです。
ちょっと話が逸れ気味になりましたが、私たちの想像は予定調和じゃないはずなので(少なくとも私はそう信じている)、私は精一杯運命に抗ってみせる。今までだって私は一生懸命頑張って来たんだから。誰からも認められなくても、私の時間は私だけのために流れてくれる− 君の時間は、君だけのために微笑みかけるから− 最後まで諦めない君の努力は、必ず報われると私は信じています。
運命が決まっていて、たまるものか−

私は無限の時間を使ってみせる。
空へ還るのを忘れた天女のように、渡るのを止めた渡り鳥のように―

それこそファンタスティックな願望ですね(*'-') でも私はそんなロマンティックな話が好きですよ。臆面も無く、こんな陳腐なことを言えるのが若い証拠かもしれませんね(笑)